名言として有名な「神様は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉。
あまりに有名になったため、安易に使われているように思います。
この言葉によって、勇気付けられて頑張り抜くことができたという人も沢山いるのでしょう。
それはとても素晴らしいことなのですが、この言葉は使う人を選ぶと思いませんか?
さらに言えば、「神様は乗り越えられる試練しか与えない」と言われる立場の人の気持ちを考えてみることも必要ではないでしょうか。
良い事言ったつもりで
自己満足している人もいるかもね
それはあるかも
それに、
言われた方は重荷だと思う
考えたことなかったけど、
言われてみれば・・・
みんなが使っている名言だからと、安易に使ってしまうのはどうなのでしょう。
言葉の重みを考えてみる必要があると思います。
お前が言うの?と思われる
「神様は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉は、ドラマなどで使わて知られるようになりました。
また、有名なアスリートがスランプに陥ったときや、ケガを負って復帰までのリハビリを乗り越える時などに自分を鼓舞するために言い聞かせた言葉として聞くこともあります。
自分自身に言い聞かせるための言葉としてなら、確かに名言なのですが、他人から言われるとちょっとカンに障るかも知れません。
試練を乗り越えるのはしんどいことです。
それを神様が与えた試練はその人が乗り越えられる試練なのだから、乗り越えなくてはいけないというような上からの励ましに聞こえてしまうことがあります。
その人が乗り越えなければいけない試練よりも、何倍もツラく厳しい試練を乗り越えた人であれば、使ってもカンに障ることもないのでしょうが、試練に対する感じ方や受け止め方は人それぞれ違うはず。
あなたは乗り越えられても、
私には無理なのよ
そう思われてしまうこともあるわけです。
自分は苦労もしていないのに
お気楽にそんなこと言う?
こんな反感を持たれてしまう恐れもあるのです。
神様という存在を使ってしまうのは、言われた立場にも重いし、それを言う立場も重さを感じていないと「はあ?」と思われてしまう可能性は十分あるのでしょう。
試練の意味を間違えている
じつは「神様は乗り越えられる試練しか与えない」と言う言葉は、聖書の中にある一文がもとになっているそうです。
やはり神の言葉として伝わっているのか・・・と重く受け止めるわけです。
ですが、神の与える試練とは、辛く苦しいことを指しているのではなく、誘惑のことなんだそうです。
神が誘惑をあえて与えて試しているという受け止め方もできますが、誘惑に負けない強い気持ちを持つことが試練を乗り越えることだとすれば、神が与えている試練というのも理解できなくはないでしょう。
聖書の言葉は解釈が難しいので、伝わり方が変わってしまうのかも知れませんね。
重荷を感じさせる言葉
「神様は乗り越えられる試練しか与えない」と言う言葉が、とても重荷で負担だったと言う人は少なくありません。
励まされた人よりも、きっと負担に感じる人の方が多いのではないかと推測します。
なぜなら、この言葉を言われる立場の人は、辛く苦しい状況にあるからです。
たとえば闘病生活を送っている人に対して、この言葉を言ってしまうのはあまりにも残酷です。
痛みや苦しみがあるのに、我慢しなければいけないような気持ちになってしまうからです。
弱音を吐けなくなってしまうからです。
苦しい状況にある人を励ますつもりでも、苦痛に耐えている人の気持ちを考えれば、「神様は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉は使えないのではないでしょうか。
まとめ
もしも「神様は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉を使うのであれば、苦しい状況を見事に乗り越えた人を讃えるのならいいのかも知れません。
苦しみ真っただ中で使うのは、いささかタイミングが悪いと思います。
好かれと思って、悪気なんてもちろんゼロだったとしても、相手の気持ちを重苦しいものにしてしまう言葉は意外とあるものなので、気を付けたいですね。